01.Maho Cavalier

    シャーロットのおくりもの カバリヤまほ

     アメリカの児童文学『シャーロットのおくりもの』(Charlotte’s Web:作:E. B. White/ イラストGarth Williams 1954年) は、幼い私が出会った衝撃的な物語でした。子豚のウィルバーは自分は殺されて、ハムやベーコンになる運命であると知り、悲しみ嘆きます。そこに蜘蛛のシャーロットが現れ、蜘蛛糸を巧みに使ってウィルバーを救おうとするのです。ウィルバーにとってシャーロットは無二の親友であり、命の恩人です。ウィルバーにはもう一人農場主の娘ファーンという友達がいます。成長が芳しくなかった子豚のウィルバーを、農場主は早めに屠畜する予定でしたが、それを救い育てたのがファーンだったのです。とても簡単な説明ですが、『シャーロットのおくりもの』は、種を超えた心温まる友情物語です。

     他の登場人物(動物)である農場で飼育されている羊やアヒルも、ウィルバーと同じ運命をたどる仲間です。そして農場主は彼らを利用して生計を立てているのです。それぞれの目線の思いが、生き生きと書かれている小説です。物語の発想は、作者の家畜に囲まれて暮らした経験が元になっているといわれています。農場の豚の世話をしていたある時に、「この子たちは殺されるんだ」と、はっと気づいた、それが着想の原点だったようです。私はこのお話は友情物語であると共に、尊い時間を共有している生命体の「命」と「死」の物語で、児童文学には少々残酷とも思えるのですが、決して暗くなく、生と死を伝えている傑作であると思います。

     動物倫理学の授業の教材に、哲学者トーマス・リーガン博士(Thomas Regan)の『The Case for Animal Rights』がありました。リーガン博士は「人間以外の動物も、「生命の主体 (“subjects-of-a-life”)」である。ゆえにある種の権利があり、その権利が認められるかどうかにかかわらず、その権利は存在する」と言っています。この考えは自分が抱いていた「生命とはその生命が宿る主体にとって尊い価値がある」という考えと合致し、大きな安堵感がありました。

     先日、ある消費者向けのイベントで、ブースで来場者にポスター、チラシを配布し、アニマルウェルフェアの普及をするという活動をしていました。来場者にはお子さん連れのグループがたくさんいらっしゃいましたが、中でも一組の親子のことが印象に残っています。動物のポスターの写真をみて、3,4才の女の子が、興味津々に走ってブースに来てくれました。それを追いかけてきたお母さんが、

    「かわいいね。でもこの子たちは食べられてしまうんだよ。」

     かわいい動物の写真見たさに駆けてきた子供には、残酷な言葉だと思いました。この母親と家畜の現実の距離感からか、また食べることに罪悪感を持っているかなのかと、少々困惑しました。この女の子は眉間に皺寄せながら、黙ってしばしその場に固まっていました。幼い女の子は何を思っていたのでしょうか。

     

    『シャーロットのおくりもの』を読んだ後の衝撃を今も記憶しています。生きたい命は、他者の必要性によって断たれてしまう現実があることです。自分がウィルバー、シャーロット、ファーンとして生まれていた可能性があります。物語に出てくる存在は、与えられた生命を「生き抜きたい」という共通の思いで繋がれていて、だからこそ「死」を強く意識していると感じます。

     生命とはその生命が宿る主体にとって尊い価値があるということ、そこには種別は関係ないということを『シャーロットのおくりもの』が教えてくれました。生きている間の尊い時間、経験は、その持ち主にとってはかけがえもないもの – 利用する側はその価値を認識して大切にし、最大の配慮をする必要があるだろうと考えています。『シャーロットのおくりもの』は、現在の自分の活動の基盤に深く根ざしています。